オーマ


仕事を終わらせた時には、深夜2時を回っていた。

画面から目を、キーボードから手を離すと急に喉が渇いたのを感じる、冷蔵庫には麦酒一本入っていなかった。



財布を持ち、コンビニまでを歩く。

夜道を歩くのは何となく好きだった。

小さい頃、夜は外に出して貰えず、多少大きく成っても夜遊びする様な友達は居なかったから、この年に成っても少しわくわくする。



例え大通りでも、丑の刻と成っては街灯以外に光る物は無い。

電柱の分だけ道端が照らされている。

其の一つに人が立って居るのが見えた。





「どうも」

人影が挨拶をする、白いワンピースに黒く長い髪だった。

灯りからは少々ずれた処に立っていて、顔面は良く見えない。

「今日も暑いですね、眩暈がしそう」

「ええ、連日こうでは堪らないですね。散歩ですか?」

人影ははいと云い、おれの身形を見、貴方もですかと訊ねた。

「自分は買い物です。麦酒を切らしていまして」

「あ、成る程、買い物ですか。確かに用が無ければ、こんな時間に出掛けはしませんよね」

「そうですね、この時間帯に散歩したことは有りませんね」

人影の話す口振には、何か含む所が有る様な気がしたが、おれが窺い知る事は出来ない。

其れにしても、この人物はおれの知り合いだっただろうか。

人付き合いは不得手なので、知り合いは少ないのだが、どうにもこの様な話し方をする人物をおれは知らない、向うが知り合いと勘違いしているのだろうか。

「…申し訳ないんですが、顔見知りだったでしょうか?」

そう訊くと、その人影はくすくすと笑い、少しよろけ、改めて顔を灯りの下に晒した。

「会った事は有りませんよ、今、初めて話をしたのです」





「ああ、そうですか」

「そうです。初対面の人物にいきなり話し掛けるのは、貴方には少々不躾だったかしら?」

そんな事は無いと云うと、又くすくすと笑い、目を細めた。

「御免なさい、今のは冗談。以前会ったわ、貴方少し前まで水上に住んでいらっしゃったでしょう」

「ええ確かに、住んでいました。貴女も水上に?」

「そう、あそこの雑貨屋の店番をしていたの。随分と貴方が懇意にしていたものだから、私の顔位覚えていると思ったのだけれど」

「嗚呼此れは失礼、確かに良く通ったものだが、あの店で何か物を買った事は無いのです。何か買っていれば覚えていたやも知れません」

此の下切の街へ来る前、数年程水上と云う小さな街に住んでいた事が有った。

其処へは職場が決まる迄の予定だったのだが、中々仕事が見つからず、暫くの間書店で倉庫番の様な事をしていた。

其の間良く、駅の通りに在ったその雑貨店に通っていた、可也の頻度だったが、物を買った覚えは一度も無い。

然し、如何せんこの人物に見覚えが無い、記憶違いと云えば其れまでだが、其れでもあれだけ通ったのだから、多少は覚えが有っても良い筈だ。

其れにおれは、この人影に余り決定的なイメージを抱けないでいた。

輪郭が無いと云えば良かろうか、もやもやとした感じで掴み所が無いと云うか、要領を得なかった。

鼻筋の通った美人である、そして白い。

美人薄命を絵に描いた様な出で立ちで、全ての線が細かった。

そして、左腕が無かった。





「…気になるでしょう?」

「あ、いや。申し訳ない、注視したつもりは無いのだけど」

白いワンピースにも左腕は無かった、既製品を改造したのか、オーダーメイドなのか、自分で縫ったは分からない。

「嘘を仰い、気にならないほうが、どうかしてる」

少々不機嫌になったか、語尾が荒々しいような気がする、当然だが、自分にはどうしようもない。

「…御免なさい」

謝罪すると、フフッと笑った後、こう言った。

「じゃあ…、謝罪ついでに損害賠償でも請求しようかしら」





コンビニまでは大した距離ではなかったが、如何せん熱帯夜であり、汗が大分流れた。

自動ドアーが開くと同時に、人口の涼風が漏れた。

棚越しに麦酒を探す、六本ぐらいでいいか、ついでにつまみと、用も無しに電池を幾つか。

「あ、レシートはいいです」

そう言って初めて、随分と寒いことに気付いた。

袋を持つ右腕に力が上手く入らなかった。





コンビニを出、家とは正反対の方向に進むと公園がある。

普段は近所の子供が遊んでいる公園だ、勿論今の時間子供は居ない。

「早いね」

「近いですから」

例の彼女がベンチに座ったまま話しかけてくる、おれは袋から麦酒を一本取り出し、彼女に渡す。

「どうぞ」

「いやどうも、悪いね」

幾らか、否、可也上機嫌になって彼女はそれを受け取った、器用にも片手でプルトップを開けてみせる。

彼女が請求した賠償というのは、麦酒一本、それだけ。

まぁ、痛くも痒くも無いので承諾した。

何で今斯様な状況に陥ったかどうかを考えると、疑問しか浮かばないが。

「…フフ」

「…何か?」

「君、今、自分が陥った状況を憂いだね?否、寧ろ一体何をやっているのか判らない、といった所かな」





「顔に出ていますよ、随分とね」

左様で。

「そろそろ帰りますね、時間も時間ですから」

「アアはい、そうですね」

携帯を見ると、2:52と表示されていた、結構経っている。

少し残ったのを一気に呷る、温い。

「じゃあおれも、帰ります」

言うと、彼女は自転車を横に携えていた。

彼女は散歩と言ったはずだが、何故?と考えていると、彼女が口を開いた。

「本当はこっちが本来の目的なの、散歩はついでみたいな物」



左様で。





「では、そろそろ」

「ええ、又会えたら、その時は」

そこまで言って、彼女は何かを言うのを止めた。





「いや、コレは言わなくても大丈夫。すぐ気付くわ」





「又会えたら…」

自転車に足をかけた彼女が振り向く。

「麦酒、奢りますよ」

一瞬ぽかんとした後、口だけで笑って彼女はこう言った。

「じゃあ、又会わなくてはね」





漕ぎ出した彼女を見送る。

立ち漕ぎでスピードが付いてきたら、こちらを振り返って、手を振っていた。